2011年2月26日土曜日

コミュニケーションなんてキャッチボールじゃなくていい

人は、人の話を自分の文脈でしかとらえられない。
彼が言っている匂いは、ぼくの想像する匂いとは違うかも知れないし、
彼が感じた体験は、ぼくの想像するそれとは全く関係ないかもしれない。

それでも、目の前で「自分」と「自分の考え」について、語ってくれる人を目の前にして、僕は「僕の生きてきた文脈」でとられたくないなっておもったんだ。
それはとても失礼なことなんじゃないかって。

たとえば、相手がコピーの書き方について語っているときに、自分の人生に置き換えれば、数学をやっていたあの場面に似てるなっていう翻訳をすることができる。
そのほうが、理解しやすいから。
でも、それは彼の体験の近似でしかない。
どれだけ、翻訳をしても、彼が体験したものと同じ体験を感じることはできない。

だったら、結局わからないかも知れないけど、全然理解出来ないかも知れないけれど、
「素」のままをうけとれないかなって。
彼が伝えたいのは、その体験ではなく、その奥にあるなにかかもしれない。
言葉には出てきていない、非言語的なものかも知れない。
僕の体験と想像では全く想像もつかないものなのかも知れない。

だから、僕はぼくの文脈で、彼の言ってることを理解するのではなく、もう、全身全霊できいてやろうじゃないかって。



そうおもったんだ。結果、

オリジナリティっていうのは、他に置き換えられないこと
ふるいにかけることで言葉を落としていく
言葉のざらつき、肌触わり
笑いとは緊張と緩和
消毒液のたとえ

ぜんぜんいみわからなくて、さっぱりで、質問すらできなかったし、自分の意見を伝えることすらできなかった。
でも、その感覚をなんとなくではあるけれど、つかんだんじゃないかなって思った。

彼、彼らが教えてくれたのは、言葉では伝えられないものがあるということ。
感覚でしか理解出来ないものがあるということ。

そして、彼、彼らが僕にくれたものは、その感覚にいたる過程ではなく、
その感覚に至ろうとする「熱意」と「決意」だったんじゃないかって思う。

僕は、質問ができなかったんじゃなくて、質問をしなかっただけなんじゃないかって。
だって、いくらでも質問はできたさ。
「それってどういう意味ですか?」
「あなたはそこにいたるためにどんなことをしたんですか?」

でもさ、そんなこと聞いてどうすんの?それと同じことするの?それを参考にするの?

なんか、そんなのつまらなくない?おれは、オレのやり方を考えるよ。そのほうが絶対楽しいじゃん。問題も、答えも、そのヒントですら、僕は聞きたくない。
ただ、そういう事を出来る人がいるってことを、ぼくが憧れていることをやっている人がいるってことを知れればいい。ただそれだけでいい。

改めて、自分がそういう考えを持ってるんだなーっておもった今日の飲み会。(結論までがめっさながいけど。)



彼らが感じる「ざらつき」を体感できるようになるまでどれくらいかかるのか
そもそも自分がどういうところにその「ざらつき」を得られるようになりたいのか



そんなの相変わらず五里霧中なんだけど、次あの人達と飲むときは、がーってしゃべって「どうすっか?」って聞いてみたいなってー思った。
コミュニケーションなんてキャッチボールじゃなくていい。
投げたいところ投げて、捕りたいやつがとればいい。
そいつがまた、がむしゃらに投げ返してくれることを信じて。
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