2011年11月30日水曜日

mixiを辞めました。

だらだらと存在を放置していることが、なんだかむずがゆくて、だったらいっそのこと無くしてしまおうと思い、mixiを閉鎖することにしました。
僕にとってのmixi
mixiをはじめたのは2005年の8月。greeに入った1年後でした。はじめはgreeの方が友だちが多かったので、greeを使っていましたが、徐々にmixiに友だちが増え、いつの間にかgreeではなくmixiを使うようになりました。おそらくは、高校の友だちが増えたことが大きいのではないかと思います。

まだMLとかSNSとかそれほど僕らに浸透していない時代。mixiが僕にとって画期的だったのは日記を見れるという点でした。
たまに日記を読んではコメントをし、自分に来たコメントには律儀に返信をしていました。理由がないと人に話しかけられなかった僕にとって、mixi日記はコミュニケーションのキッカケ、いいわけを与えてくれるすばらしい装置でした。だから、日記はよく書いたし、ある時期までは頻繁に利用していました。
mixiが必要でなくなった時期
mixi疲れという言葉が生まれてからしばらくして、僕もmixiをあまり使わなくなりました。それはおそらく、コミュニケーションが起こらなくなってきたから。
大学でたくさんの友だちができて、地元にもあまり帰らなくなったこと、mixiの日記をみんながあまり更新しなくなったことが主な要因であると思います。遠くの親友より、近くの友だちなんだな、と改めて思います。僕は体たらくなのです。

とたん、日記を書くという行為も、コメントでコミュニケーションをとるという行為もめんどくさい行為に変わっていきました。行動までの敷居がとても重いのです。
さらにtwitterを使うようになり、Facebookを使うようになった今となっては、mixiは死んだも同然でした。コミュニケーションをとる相手がそこにはいないから。見ることはあっても、使うことは皆無です。
(決して、地元の友だちと遊ばなくなったのではなく、アクティブになった僕は、mixiのようないいわけツールがなくても、メールや電話でコミュニケーションをとれるようになったというだけです)

そうやって、僕はいつの間にかmixiからフェードアウトしていきました。
mixiを辞めようと思ったキッカケ
別にこのままmixiを放置しておいてもいい。日記のデータが消えるのはもったいない。迷いはありました。辞めるという行為に意味があるのか、最後の最後まで考えました。

しかし、だらだらmixiを続けるという心理はめぐりめぐって、他の行為もだらだらと続けてしまう温床になるのではないかと考えました。無意識というのはどこかでつながっていると思うからです。何かをだらだら続ける人間は、他のこともだらだらと続けてしまう。「もし、いま、そういう性格を治したいなら、まず辞められるものから辞めていこう。」それが最終的な一押しとなりました。

人生は短い。だからこそ、大切なことに時間を続けるべきなのです。だらだらと続けるという行為は無駄以外の何者でもないのです。無駄というより害になる可能性もあります。







・・・さて、そろそろ冗談を辞めよう。


「○○辞めました。」という記事をときどき目にするようになり、辞めるという行為がコンテンツになるんだ!と気づかされたので、「俺も俺も!」とダチョウ倶楽部的な発想で、僕も何かを辞めたくなりました。が、あいにく僕には、辞める対象が存在しませんでした。
なので、ふと頭に浮かんだ「mixiを辞めました」でブログを書くことにしてみたのでした。

生と死が等価であるように、辞めるという行為は、始めるという行為と対をなしている気がしています。
人はなにかと区切りを求める生き物です。僕はそれが不思議でなりません。何も変わっていないのに、あたかも変わったかのように錯覚させる「区切る」という行為に何の意味があるのか、なぜ人はそれを求めるのか。
卒業だったり、誕生日だったり、明日から甘いもの食べない宣言だったり。終えること、始まること。人はそこに、特別は感情を持ってしまうみたいです。
しばらくはいろんな終わり方を探してみたいなと思っています。そこにステキな始まりを見つけられたら、なおいいなって思います。


あ、ちなみにmixiは辞めてません。あしからず。
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