2011年4月23日土曜日

この羨みを抱きしめて

ときどき目を背けたくなることがある。

すんごくたのしそうなことがあったり
すんごくひとが盛り上がってることがあったり
すんごく面白そうなものをつくっていたり

そういうのをtwitterとかで見かけると、なんか心臓の真ん中あたりがキュンってする。体が「みたくないよーみたくないよー」って言ってくる。
この感覚は一体どこから生まれてくるんだろう。何が原因なんだろう。そんなことを考える。
それは羨望だったり、嫉妬だったりなんだろうか。
だったら、ぼくは一体何を羨望し、何に嫉妬しているんだろう。

今日はずっとそんなことを考えていた。

たくさんの人が来るイベントを作りたいと思っているから悔しいのだろうか
いろんな人が振り向いて、たのしそ~と言ってくれる企画を作りたいから羨むのだろうか
輪の中心にいたいのにいられないから妬むのだろうか

そう。たしかにそう。でも、半分当たっていて、でももう半分は外れている気がした。

僕が考えたいことってなんだろう
僕が実現したいことってなんだろう

いま羨望したり嫉妬しているものの延長線上に、それはあるんだろうか。

そうして気づく、もし羨望や嫉妬が「今」と「理想」のずれから生まれるものであるならば、その中身は、決して作れなかったことではなく、その輪に入れなかったこと、入ろうとしなかったこと。そして、それを生んだ自分の勇気の無さと無駄なプライドの高さにがっくりきて、情報を遮断しているのだと思う。嫌な自分なんて見たくないから。


この違和感が教えてくれたこと。ひとつは嫌な自分がここにいるということ。そして、もうひとつは僕のやりたいこと。面白い遊びを作り続けたいんだということ。

それが分かっただけでいい。それを認められただけでいい。
しばらく、この羨望と嫉妬を抱き抱えながら、進んでいこう。
人を妬むくらいなら、面白い遊びを考えよう。妬みたいのではなく、作りたいのだから。


そんなこんなで、嫌な自分と少し向きあって、少し受け入れて、少し前にすすめるかなと思った金曜の夜。
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